主に参考にしたのは、「図説 千葉県の歴史」、三浦 茂一 (編集)、河出書房新社 (1989/07)。
安房の漁業 安房の漁業開発は、関西漁民、とくに紀州漁民によって行われた。江戸時代前期には天津周辺で八手網(はちだあみ)による鰯漁が盛んに行われた。江戸日本橋の魚市場に直接魚荷を押送船(おしおくりぶね)で運び、漁業を専業とした浜方(はまかた)集落もかなりあった。内湾の水産業として、文政年間に小糸川河口で、近江屋甚兵衛によってはじめられた海苔の養殖も忘れられない。 --- 「図説 千葉県の歴史」
銚子・九十九里浜の漁業 九十九里浜の大地引網漁業は、網の規模から日本一といわれ、江戸時代の房総を代表する漁業であった。とれた鰯は干鰯(ほしか)となり、全国に出荷された。銚子の漁業は鰯漁のほか、鰹・秋刀魚など江戸の魚市場に送られる鮮魚も多かった。 --- 「図説 千葉県の歴史」
地引網の伝承 - 紀州から九十九里へ -
さて肝心の地引網については....紀州の漁師"西之宮久助(にしのみやきゅうすけ)"が九十九里浜に漂着して、剃金村(現在の白子町)で手厚い看護を受けた。そこで、そのお礼として、小地引網をはじめたのが、最初とのこと。
ただ、年代ははっきりとはしておらず、1200年代または1500年代とされているようだ。
なお書籍によると、もう一人の名前も目にとまる。
寛永(1624-44)に、現在の一宮町の"片岡現右衛門(かたおかげんえもん)"が大地引網を工夫した、また、九十九里の地引網漁業は、江戸時代、日本で有数の大規模事業であったとのこと。
地引網は規模によって、大・中・小に分類され、大規模の場合は、長さ片側300間、網の幅5間で、網の中央部に長さ30-40間の大嚢網(おぶくろあみ)がついていた、とあるので、ざっと現代の長さであらわすと.....
長さ 片側300間 = 545m(メートル)
網の幅5間 = 9m
大嚢網30-40間 = 55~72m
となるので、網の長さとしては1km以上で、その中央に55~72mの嚢網がついていたというイメージになる。
この網を、2艘の船で運び、沖にでたら網を張り、陸で網を引くと、中央の嚢網に魚が集まるというのだ。
このためには、2艘の船に乗るのに約60-70名、加えて、網を陸で引くのに200人、総勢で260-270名が必要だったとのこと。確かに、かなりの大事業であっただろう。
江戸時代、関西から房総への計画移住が進む
さて、地引網は、偶然、漂着した紀州民による伝承との記載があるが、他にも気になる記載があった。徳川家康が江戸幕府を開いた後、東京の佃(月島の近く)に、摂津(現在の大阪)の佃島の漁民を江戸に呼び、江戸近海での漁業の特権や土地を与えたのは有名な話だ。
実は当時、江戸から離れた、千葉の房総においても、関西の漁民が進出していたというのだ。(もちろん、江戸以前からもあったようだが、江戸に入ってから本格化したのだろう。)
関西の中でも、主に摂津・和泉(大阪・和歌山)から、安房・東上総・銚子へ。
おそらく、江戸以前から漂流等により細々と関西から房総への"移住"は行われていたのではないかと思われる。
それが江戸に入り、食料としての魚の需要が急激に増加したことで、房総の中の良港については計画的な移住がより本格的に進んだのではないかと推測する。
黒潮の流れ - 紀州から九十九里への裏づけ -
さて、話を西之久助に戻すが、紀州から九十九里への漂着とあるので、地図で確認してみよう。ここに黒潮の流れを加えてみると....
たしかに、黒潮に乗り、このルートで千葉まで流れてきても不思議ではないと思われる。
ところで、千葉県、特に房総のあたりに、紀州・和歌山と同じ地名がいくつかある。一番有名なのは勝浦だろうか。
きっと、遥か昔、紀州を離れ、漂着してしまった人々が、黒潮によって千葉になんとか流れ着き、遥か遠い故郷を想い、故郷と同じような風景の場所に同じ地名をつけたのだ。
地名となっている以上、漂着・移住はとても古い年代からあったものと思われる。
そして、時代は流れ、いつの日か紀州で確立された漁法・地引網が、同じく漂着により、紀州から九十九里に伝わったのだ。
しかし、まあ、歴史とはなんとロマンチックなものだろう。
上総と下総の由来
ところで、この黒潮の流れ、非常に重要で、上総・下総の由来ともなっているのは有名な話だ。これは、昔は、陸路ではなく海路がメインだったので、都から近い順に、または、海路の順番で、(先に到着する)南側が上総、北側が下総、となったというのだ。
この点からも、関西地方と房総の関係は、江戸どころではなく、おそらくもっともっと昔からなのだろう。
なお、交通の発達した現代の我々はたやすく想像できないが、当時の地形・移動手段を考えることは非常に重要である。
番外編:醤油の伝承
地引網からは少し離れるが、醤油についても少し記載しておきたい。銚子醤油の起源 銚子の醤油醸造については、田中玄蕃(たなかげんば)が、摂津西宮出身で江戸の海産物問屋真宣九郎右衛門から関西の醤油の製法を教わり、元和2年(1616年)に醸造を始めたとの言い伝えがある。
--- 「図説 千葉県の歴史」
ヤマサ醤油の浜口儀兵衛は、紀州広村の出身で、正保2年(1645年)の創業と伝えられるが...
--- 「図説 千葉県の歴史」
ここでも、摂津、紀州、である。
江戸に入り、漁業以外にも、商業活動を目的として、紀州から九十九里への移住が本格的進んでいたものと思われる。
そして、なによりも、関西地域と千葉の繋がりは、非常に深い。
歴史は、やはり、時代と人がつくるのだ。
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